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凝り固まった価値観って今更?今更変えられるもの?60歳まで生きるとしたら、もう人生の半分使っちゃった。

良くも悪くも影響されやすく、だからどちらにもなれて、簡単にどちらかに固執してしまう。私のこの病的な意思の弱さはなんだろう?どうしてこの、こんな人生なんだろう?灯台へを読んでいる時のような、意識の継ぎ目を曖昧にするような感覚をまた味わいたい。侵食したい自分とされたくない自分がいて、とっくに止めたい。工数がかかるばかりのドキュメント、点での説明になってる、構造化出来てない、なるほどそういうことなんですね。勉強になります。投げ出したいなあ。自分の意思なんだこれは、と思ってやっているけど、はて、本当の私はどこにいるんだろう。薄っぺらい人間。私が私を薄っぺらい人間だと決めるのはとても傷つく。

踏み跡を深くする

「急に具合が悪くなる」を読み終わった。

映画が先だったから、ある会話のやり取りで一番泣きそうになり、ぐっと来た。監督がここを大事にしたかったんだろうかと勝手に考える。本を読んでいる時は、途中泣きそうになったけど(これも消費のような姿勢で嫌になる。)、最後はとても力強く、格好良く、爽快感で満たされた。もう一度必ず読む。

特に、〇〇の接し方というマニュアルに沿って、正解の行動をする事でそれに囚われた関係性になる…のような話が、まさに今の私のことのようで考えさせられる。

 

昔の自分の話をする。

病気の時の私は、強烈で、さまざまな人を巻き込み、迷惑をかけ、その時は良くなるわけがないと毎日泣きながら過ごしていた。それが今は毎日出社して訳のわからない環境でへとへとになりながら、休みは好きなことをして過ごしている。あの時の当事者性が全くなく、「健康体の私」として生きている。それが物凄く怖い。過去の自分を別人のように割り切っている時があることも、病気の時の気持ちが分からなくなることも。あの時の私とは違う、と切り離したい私がいるからというのはうすうす気付いている。もっと個人的な感情と切り離して、どちらの自分も大切にしたいのに。

さまざまな事が巡り巡って今の生活を作っている。私があの時病気になった事も、今の生活ができていることも。

 

もっと文章を書こうと思った。稚拙でも何でもいい。薄膜が張ったようなあの頃に比べて、今は社会の中の歯車として生きることで精一杯で、同じような言葉しか紡げない。私は私。あなたはあなた。あなたの言葉が聞きたいから、私は私の言葉をなくさない。明日気が変わって日々の中に入り込むことを選んだとしても、今ここにある気持ちを忘れない。

 

三連休最終日、久々の洗濯自炊と二度寝、それから読書に時間が割けて(そして集中出来ると知って)、じんわり嬉しい気持ち。

受け止める

映画「急に具合が悪くなる」のことをずっと考えている。もっと考えていたいのに、一日過ぎる毎にあの時感じた感情や新しい光、発見、整理が失われていくのが分かって悲しい。もっと考えていたい。

それが正しい意見かは置いておいて、自分で辿り着いた事が一つあり、それがとてつもなく嬉しかった。考えて考えて、自分で見つけた答えなんていつぶりだろう。

近くで見たら、誰もまともではない。この言葉に救われる。自分がバケモノみたいに見える日も、心安らぐ日も、この映画とこの言葉たちと混ざり合っていたい。夜明けまで友達と話したい。分かり合えないことを排除しない。

どうしようもない!

又吉が本について熱弁している動画を観て、私もそうだ、こんな気持ちで本が読みたいんだ!と思い立ち、数年積読していた「台湾漫遊鉄道のふたり」を一気読み。

ライトノベル的な軽さで思ったより何倍も読みやすくて、翻訳の素晴らしさを感じる。主人公の言動には序盤からかなりハラハラしていたから、分岐点ではそうだよね…と納得だった。でも、当時の時代を生きていないからこんな風に俯瞰が出来るのかも。それに、千鶴子のような図々しい態度は私にはきっと出来ない。むしろ遠慮しすぎて一生仲が深まらない気がする。千鶴子の溌剌とした態度を私も見習いたい。

 

GWは色んな所に行って、自分の気持ちがぐわぐわと揺らぐのを感じた。京都の自然が恋しくて、帰りたくなくて、最寄駅の階段を上る時にふと泣きそうになる。京都にいると、人混みやキリキリするような環境を思い出して、東京なんてもう嫌と思う。でも私は東京の夜景も、ミニシアターが沢山あるのも好きだから、どちらか完全に偏ることはきっとない。両方の気持ちを曖昧に持ち続けて、時々傾いて、そうやってなんとか生きていく。これが人間なんだろうなと思う。こういう事を静かに考えながら家に向かう自分を外側から見て、なんだか大人になったなと思った。

 

バランス良くいる事こそ高尚で冷静なのだ、と思う節が世の中にはある。私にもある。自分が冷静さを欠いていた時期があるからこそ自戒を込めて。0か100でもない。だからといって、完全な中立はめったにあり得ない。

何に対しても考えなしに「中立」でいる事は、考えることを一番放棄している気がする。そこにいれば、何もしなくても自分が冷静であると見せる事が出来る。

でも本当は違う。少なくとも千鶴子のあの言葉は多くの人を苛立たせ傷つけた。私は千鶴子が「教えてください」というのも、烏滸がましいとさえ思う。

 

今日は前へ、明日は3歩後ろへ、来週はどこにも歩き出せない。それで良い。私がそうであるように、人の発言も明日には変わる。変わらない人もいる。帰ったらきんつばを食べよう。

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今年のGWは、自分が大切にしたいものにじっと向き合える時間を作れた。兵庫→神戸→伊豆大島と今までで一番アクティブだった気がする。

整備された美しさ、野生の美しさ、ウグイスの声と強い栗の匂い。頭皮は日焼けしちゃったけど、山にも登れた!

 

仕事に戻ると「私はここで頑張らないと先がない」とまた思ってしまうんだろうけど、それでもどこかで「追い詰められて心がなくなるくらいなら、今の生活を捨てても良い」と思う自分がいる。

それに、今の環境がある意味ハードで極端なだけで、今の仕事の待遇が100だとして、次の職場でに0になるわけではない。何事も極端にはならない。自分がそうさせているだけ。

何より、自分を追い込みすぎるのは本当に良くないから、自分でちゃんと逃げ場を作っておきたい。

 

「新しい本が読めなくなった。同じ本を何回も読んでしまう」とか、色々あるけど、前は消費するように大量のエンタメを摂取することが悩みだったんだから、今は交代制だと思うようにしている。なんだって良い部分がある。

 

強いて言うなら、考え事をした時に一段階先に行けなくなった感覚があるから、今年はそれを突破したい。

扉

死ぬまでに出来るようになりたいことの一つが「散歩しながら花の名前が言えるようになる」なんだけど、今年少しずつそれを叶えている。

現代は花の名前がすぐ特定出来るからすごい!ただ、すぐそれに手を伸ばすより、自分で一回確かめる。葉の形は?垂れ下がっている?枝分かれするように咲いている?

 

ドウダンツツジのことをずっとスズランだと思い込んでいた。写真で見たらスズランだ!って分かるのに、色々と鈍い。

スズランみたいなのに、その見た目でツツジ科なの!?と思うなどした。

 

木々がらんらんとしていて嬉しい。

特に夜のつやつやした草は特に良い。

花を作る全てが素晴らしい。

 

私の街は白い花ばかり咲いている。

 

 

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ドウダンツツジ。漢字が格好良い(灯台躑躅)

日本の人には灯台に、中国の人には神様によって輝いた星に見えたみたい

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アセビ。こんなに可愛いのに猛毒

利己的であれ!

会社の飲み会に参加し、ああ馬鹿にされているなと分かりながら、でもあなた達は私の人生の一部だから、別に馬鹿にされていようがいいんです、と思えるようになった。事実は知りようがない、本当は違うかもしれない、けれど私はいつでも最悪を考える。

だから自分が余計に傷つかないように逃げ道を用意する。でもそれは自分が簡単に気楽に生きられるための余白。側から見て逃げだと言われようが、私にとっては余白。そう思えるようになった事が嬉しい。私は全部受け止めてた。

 

どうでも良い。全ては一部。

大切な人達とどうでも良い話で笑って混乱して泣きそうになる日々が大切。

私のことを大切な人と思っていなくても、私が大好きなのであれば、その時間を大切にする事が何よりも大事。

結局自分の思うままに生きることで快適さを取り戻せる。

他の人がエゴだと思おうが、関係ない。他人の意思は関係ない。私の完璧主義はエゴによって相殺される。さよなら!

夢まで覆い尽くす平日から逃れて何者でもない自分を過ごす。大好きな友達が言ってた、いつもが異常で、この安らぎが平常なんだって。私もいつもそう思うよ。もっと内的な話をしようよ。あなたの話を聞きたい。