皮膚を剥がす

私は⚪︎⚪︎だとカテゴライズするのが怖い。自分のテリトリーを決めてしまうことで、その中にいない人を無意識に敵にしてしまう可能性があるから。

頭の中で他人に対する先入観や決めつけが浮かぶ度に、無意識の思考を塗り替えるのはなんて難しいことなんだろうと日々感じる。冷静に考えたらとんだ先入観だと分かるのに、ふと思い浮かぶ無意識の思考がそれに追いつかない。その度に自分が優しさだと思っているものがいかに表面的かを痛感する。だからそんな自分をカテゴライズしたら、そこに所属していない相手に対して先入観が強まってしまう気がする。

アンガーログを見ると、怒りや悲しみの根源は強迫観念に近い責任感を理由に書いてあることが多い。つまり「自分は駄目だが他人は良い」を心の底から実行するのは今の私にとってかなり難しく、実際自分に厳しくしていれば無意識下で他人への目線も厳しくなってしまう。

過去の私は、自分と相手の間に境界線なんか存在しなくて、いつでも侵入していいしされるものだと思っていた。全て同一にしたがるから正論をぶつけて、白黒つけたがり、自分の思う正しさ通りに相手もいて欲しかった。人間関係にあるもやのような曖昧さが嫌だった。

でもその明瞭さは本当に人を助ける?相手の痛みを和らげる?自分が楽になりたいだけの暴力なのでは?相手に自分の思うままにいて欲しいと思うのは支配となんら変わらないじゃないか。これは自分も相手も苦しめるだけなんだと心から気付いたのは、本当に恥ずかしいけどごく最近のこと。

人間である限り矛盾にまみれていて、私も例外ではないとやっと分かった。だから自分に対する不要な定義付けや厳しさを少しずつなくす作業をしている。「自分はしてはいけないが他人はして良い」が出来ないなら、「自分もして良いし他人もして良い」に変えたい。きっとそれは言葉の選び方次第でもある。「私はしなくても良いが、相手はしても良い」のような。

一年前に見ていた景色とは多少なりとも変わったと思う。物事は大抵白黒つけられないし、 私の正しさは私の中でだけ守られるべきであって、自分の意見を押し付けてはいけない。

そして物事を判断する上で、私みたいな人間が時期尚早になるのが何よりも良くない。いくら初動が速かろうが、その時伝えた"私から見た事実"は少なくともどこかに偏っている。自分が0から集める情報であればこそ慎重になるべきだ。焦れば焦るほど同じ場所から情報が集められて、他の意見が入らなくなる。いくらそれが正しかったとしても、きっと自分の中でこの環境で集めた情報が正義だと思ってしまう。自分がいかに感情的で扇動されやすいかを学んだ。私は人より他人のことを近い距離で感じているんだと思う。

私は今でも世の冷笑主義が嫌い。冷静な人間により価値があると宥める人達の、その無害な場所から物を言う態度と眼差し。その気持ちは変わらない。それでも私は、カテゴライズすることによって分断を強めたくない。言葉の力が大きすぎて分断が広がっていくのを見るたびに、奈倉有里さんのエッセイ「夕暮れに夜明けの歌を」に出てきた、トルストイの印象的な言葉を思い出す。そして自分を戒める。私は感情的な人間であると自覚した上で、振り回されるのではなく静かな怒りと言葉で生きていきたい。それはどれだけ遠くても自分と他人を繋ぐ大事な橋になる。

言葉は偉大だ。なぜなら言葉は人と人をつなぐこともできれば、人と人を分断することもできるからだ。言葉は愛のためにも使え、敵意と憎しみのためにも使えるからだ。人と人を分断するような言葉には注意しなさい。

-レフ・トルストイ